わからないについて

 Merhaba.

 久しぶりの投稿になりました。もう春が近づいてきましたね。

 わたしはそろそろ物件を決めなくてはなりません。初めは3月くらいに決めようと思っていたのに実は1月くらいにはもう決めた方がいいという事が発覚し、なんなら年頭には決まっている人も結構いるという事で、早めに決めてしまうつもりが全然ダメなようです。

 最近はお金に結構余裕があるので遊びに行くことが多いです。先日京都に遊びに行った際はめちゃくちゃお金を使ってしまった上にめちゃくちゃに酔って死にかけました。京都にいる友人は会わないうちにイタリア語がペラペラだったり彼女ともう付き合って長かったりと色々やっており、自分はその間何をしていたのだろうかと考えさせられました。帰りに八坂神社のあたりを歩いているときに聞いたベームとVPOのブラームス交響曲第3番第3楽章で泣きそうになりました。

 それとは別に今度京都に久しぶりの友達に会いに行きます(もしかしたら大阪かも)。彼もまたわたしには手に入れられなかった多くのものを手にした人であります。京都という因縁のある土地も相まってまた精神にダメージを追うかもしれませんがそれもまた一興。ちなみにわたしはこの友達になめられているような気がします。本気でいきます。

 さて、今回のテーマは最近自分のアイデンティティや今までの生き方などについて考えていた時に思い当たったテーマです。何が正解なのかわからなくなっているという問題です。

 まず、最近のわたしは自分の頭で考えられなくなっているような気がします。考えているように見えて実はどこかで聞きかじった話を出力しているような感覚があります。自分で考えるという事はどういうことなのでしょうか。それで、自分なりの正解も出せずにいます。

 最近読んでいる本はサンデル教授の有名なメリトクラシーの本ですが、確かに能力主義には負の側面もあるなと納得する一方で、自分の能力が高いこと・それを高めることに人並み以上にこだわって生きてきた身として人生全般の再考を迫られているような気がします。

 どのように幸福を目指していくかという問いに対する答えはいくつか持ってはいました(それも自分で考えたというよりは聞いた話)が、そこにより真剣に向き合わなくてはならなくなってきています。それは自分の能力に対する信頼の揺らぎとそもそもの能力主義の功罪の確認によるものです。わたしにその発想の、人生観の転換ができるのでしょうか。結局どう生きていけばいいのかわからない、という問題を抱えています。

 長い間人生の分岐点に立たされ続け、自分の中から湧き出る懊悩とプレッシャーにさらされ精神的にかなり疲労が蓄積された結果が今大して何も考えずふらふら遊んでいる自分、あるいはものを真剣に考えられなくなった自分であるという解釈も可能でしょう。別に問題がすべて解決したわけではなく目を背けているだけです。心の平穏はいつ訪れるのでしょうか。静かな幸せに浴したいものです。

 面白くない人間になってしまったものです。どう生きていけばいいかわかっていないという事は自分の中の軸が定まっていないという事に他なりません。他人の意見に相乗りして生きているだけの人間に何の面白みがあるのでしょうか。「読書感想文の書き方」に沿って書いたまったく同じフォーマットの読書感想文のようなつまらなさがあります。

 人は自分の信じる信念に基づいて胸を張って生きていてこそ輝けるのであり、「能力」も発揮できるのだと思うのです。いかがですか?

 ここからは本題から徐々に離れていきます。この記事では問題提起で終わらず頑張って自分なりの解答を出していきたいです。

 さて、能力主義で思い出さざるを得ないのが以下の記事です。

nuc.hatenadiary.org

  この記事は競技プログラミングに関する記述で一時期論争の種となりましたがそれはさておき、ここで問題にしたいのはこの記事にあふれるエリートの香りなのです。実際のところ能力主義やエリート的な主張は明示的には一切なく、むしろ簡単だよということを言っているのですが、読んだ多くの人は私が言いたいことを汲み取れるのではないでしょうか。

 どう感じますか? わたしは自分の能力の低さを恥じるに至りました。しかし今のわたしはそもそも能力というものを一番の問題にはしていないので、以前ほどは気になりません。賢くなりたいなぁという程度です。

 一方で能力主義を放棄することは一種の諦めのようにも感じます。その答えとしては、自分が高い能力を目指すのは問題ではなく、その価値観を他者に押し付け能力を基に価値判断を行う事なのでしょう。実際わたしは自分の知性を最大限に発揮して生きていきたいとは思っていますから、かなり細心にわたる注意が必要ですね。別にいいんです、結局能力が低かったとしてもそれはそれで。

 と、ここまで読んでくれた皆さんに聞いてみたいです。どうでしょう、わたしの頭はまともに動いていると思いますか? 年々愚鈍になっているよう気がして、将来に希望が持てなくなってきてすらいます。いくら能力主義を非難したところでこの原則の上に社会が成り立っている以上自分の望みをかなえたければ能力がないといけませんからね。

 ところで念のため付け加えておくと、わたしは様々な価値観を受容する構えはあるつもりです。源氏物語の世界観にやや影響されているかもしれません。大河もやってますし、みなさんもぜひ読んでみてくださいね。よさそうな現代語訳や関連書籍が多くて困ります(長いので)。
 わたしがわからないのは自分が何を特に大切にして生きていくべきかという事です。そもそもそんな優先順位って必要なのでしょうか? これも自分の自信のなさの表れかもしれません。自信をつけたい→人生の軸がほしいということなら早く見つけたほうがよさそうですね。

 加えて困っているのが、自分は他の人とは違う唯一無二の存在だと自分を肯定することはできるのですが、それで満足できない謎の虚無感があるのです。結局自分の能力や名誉、承認に拘泥しているという事なのでしょうか。

 あるいは最近の生活に充実感が足りないのかも知れません。近ごろはストレスも少なく幸福という状態に近づいていることを感じていたのですが、やはり少しでも将来がよぎるとダメですね。ここからさらに惨めになるのだろうかとか、じゃあどうすればいいのだろうかと考えて曇った気分になります。ここで自分に自信がある世界観で生きている人は前向きに楽しく考えることができるのでしょうね。

 今までわたしは極力ストレスを排除して生きてきました。その結果大成していないという面もあるにはあるのですがそれはそれとして、結局自分が幸せを感じるためには、「些細な不満もなるべく解決し」「自分には能力があり、それが発揮されていることを日々実感し」「胸を張って生きている」のが重要なんじゃないかというのが今の結論です。本当はこれ以外の結論を求めているのですが・・・。

 ここに次の行動が従いますね。無限の向上です。結局私は自分の能力を高めなければ満足できないのでしょう。ただ上には上がいるので、これが相対評価でないことが重要なのです。ではどうして自分の能力を感じることができるのでしょう?・・・。

 自己研鑽に集中するなら他のことは早く解決したいですね。収入とか結婚とか・・・。

 頭が回らなくなってきました。ストレスによって思考が阻害される感覚があります。ここらでやめておきましょうか。ブログを書いてもなにも答えが出ませんでしたね。

 社会の中で他人の評価に左右されずに人との関わりの中に幸せを見出すことなんて果たしてできるのでしょうか?

 Hoşça kalın.