2023/07/12

 ここ数日の間、取り組もうと思っていたことにほとんど手がつかない日々を過ごしており、漫然とYouTubeを見ているとインプット量が多すぎてモヤモヤするようになってきたので、読まれることを意図せずただ心に移り行くよしなし事をそこはかとなく書きつくろうと思う。

 ずっとオモコロチャンネルを見ていた。特に盛り盛り伝言ゲームとじゃれ本のシリーズが面白かった。とにかく通常の発想では出てこない不条理な展開に満ち溢れているのである。言い換えれば全く脈絡がないという事になる。通常お笑いや漫才においてはある程度の規則性や文脈を意識した笑いとなっているのでそれらとは一線を画している。規則性を無視する方が面白いのかどうかということを二元論的に語ることは難しいが、しかし幼少期から親しんだある意味原始的な笑いはこのばかばかしさにあるという事はできるだろう。

 不条理な展開という意味では、例えば不条理な演劇としてサミュエル・ベケットゴドーを待ちながらが挙げられる。この劇は鷲田清一の「待つ」ということで取り上げられているが、その評価について語ることは自らの知識不足ゆえ控えることとする。語り得ぬことについては沈黙せねばならないとは哲学界に多大なる影響を与えたウィトゲンシュタインの言葉である。とにかく不条理というものはそれを笑いに昇華するということ以外にも考察する余地のあるテーマと言える。

 さてこのゴドーを待ちながらは名前だけではあるが朝井リョウの小説・何者にも登場する。この何者は就活生の人間関係を描いた作品で、現在私が読んでいる作品である。なお続編に何様という作品がある。

 就活というのはある意味で理不尽なものである。もちろんプレイヤーそれぞれは意味を持って動くのであるが、一面しか見ることのできない、特に立場の弱い就活生にとってはしばしば厳しいものとなる。エントリーシートに何百文字という文章を作り、いかに自分が優れた人材であるかを、実際の自己評価には関係なく書かされ、それを他の顔も見えない候補者と比較され、落ちるときには一瞬で切り捨てられる。なかなか残酷な世界である。

 そして人はここで今までの人生を反省せざるを得なくなる。それがどれだけ個人にとって意味のある充実した人生であったとしても、一度エントリーシートを書く段になり書ける内容がないという事になると、自分の人生はひどく無意味なものであったように思えてしまう。弱い立場の者は良くも悪くも強い立場の評価軸に押し込まれ、価値観に囚われてしまう。

 一方でなんの苦も無く就職活動を終えられる人というのも一定数いる。インターンの経験があったり、体育系の部活で結果を残していたり、海外留学の経験があったりと、形は様々だが少し目を引く内容を経験してきたものである。もちろんこんな経験をした人は多くおり、その経験だけで優れた人材だという事にはならない。いかにエピソードの中で自分の考えや人柄をアピールするかが大切である。何の苦もなく就活を終えられる人というのは、大学時代から自分の意志でそういった経験をしてきた人ということになる。

 ではそういう人が優秀でそういった経験のない人よりも優れていると本当に言えるのだろうか。そもそも人は就職するために生きているのではなく、自分の時間をどのように使おうが根本的に自由である。だから自分の能力を証明するエピソードがほとんどないという事も起こりうる。ただしやはり限られた時間で人を評価しないといけない採用活動において具体的なエピソードがある候補者を評価し、逆にエピソードのない候補者を消極的で活躍が見込めない人材だと評価するのも自然な流れと言える。結局弱い立場の者がどう文句を言っても仕方がないのである。主張には根拠が、交渉には強いカードが必要なのである。

 ところで就職活動を難しくしているポイントに他社からの評価というのが挙げられる。そもそも就職活動をするにあたってその構造上他者からの評価には非常に敏感になっているのである。そして入社する会社を選ぶ際に友人や家族からどう思われるかという点がどうしても気になってしまい、意思決定を難しくする。他者からの評価がそんなに大事だろうか。自分の人生は他人のためにあるのではない・・・と言ってみても、就職活動はいかに自分が御社にふさわしい人材であるかをアピールする必要がある以上、ダブルスタンダードを保つことは難しい。ここは冷静に判断をしたいところである。

 世間的な評価が高い会社の方が待遇や条件がいいのだ、という主張については話がぶれるので措くこととするが、そういう側面もあるかもしれない。

 自分がどういう価値観で、どのような企業に入りたいか。これを考えることは就職活動の「軸」を定める上で避けては通れないことではあるが、結局最終的にどの会社に入社するのかを考えるときにはぶれてしまうものである(少なくとも私は恐らくそうである。特に働いた経験のない無能な新卒組にとってはなおさらである。いい会社に入って親を安心させたい、というのならまだしも、周りの友人や知り合いに裏でどう思われるかわからない、よく思われたい、なんということは本当にくだらないことであって、こんなことを入社する基準に置くべきではないであろう。

 外資系はかっこいいだの、人気企業に入りたいだの、本当にくだらないと思う。そもそも例えば人気かつ高年収の職業の代表格であるコンサルタントなどという職業は存在する必要がないのである。いなくても社会は回るし、何も生み出さない。資本主義に乗じた魔物である。

 年収を重視したいなら結局こういう思考に行きつく可能性はある。人気の職業はえてして年収も高い。収入というのは個人の能力以上に職業とエコシステムによってほとんど決定されてしまう。

 話は他社からの目に戻る。そもそも社会人になってからその周りの目というのはどれだけ関係が続いていくものなのだろうか。残念ながら、ほとんどの友人とはもう関わらなくなるのではないだろうか。そう考えるとますます馬鹿らしく思えてくる。

 就活に成功した者と失敗した者の友情は終わるという話を目にした。悲しいことではあるが、人間の性というべきだろう。やはりどこかで軋轢が生じることは想像に難くない。受験ではここまでではないのかもしれないが、それもやはり社会人が関係を保つことがむずかしいということであろう。

 私は、友達が欲しい。これは長年の課題である。友達がいないわけではないが、腹を割って話せるまったく新しい友人が欲しいと常々思っている。そこで優秀な人と話したいと思ってしまうのが私という人間である。理由はやはり優秀な人と関わって知識だけでなく発想や思考法から刺激をもらいたいという事が大きい。これは昔からずっとそうであり、向上心があるともいえるがどこか差別的でラディカルな思想が見え隠れしている。ここで問題があり、優秀な人は優秀な人のもとに集まるのである。私は果たして優秀であろうか。結論は出さないこととする。

 ともかく優秀な人と関わりたいのであれば優秀な人が集まる環境に行くべきなのであり、そこに行けるのは優秀な人である。ここで就職に話を戻すと、新卒入社の同期社員は年も近く苦労を共にする仲間として仲の良い人を作る絶好のチャンスではないだろうか、という発想に至る。先程の優秀な人と仲良くなりたいという話を踏まえると、優秀な人の集まる企業に新卒で入社すべきだという事になる。ではそういう企業はというと、人気の高い大企業である。結局、私が否定的に考えていた会社がいいということになってしまった。しかしなかなか内定は出るものではない。悲しい話である。

 今なかなか内定は出るものではない、と書いた。就職しているとやはり高学歴で優秀な人ほど早くから大企業の内定を勝ち取っていき、内定の出ない人ほど残念な、落ちこぼれた人だという考えになってくる。こうして私の自己肯定感はさらに下がるのである。世の中の厳しすぎる評価に思考が方向づけられていく。

 就活応援アカウント、あるいは就活をエンタメにした動画を作成するクリエイターというものすら存在する。私はこれには反対である。もちろん自分が困っているときにそういう情報源にたどり着くと心強いのは確かだろう。しかしそういう存在によって、例えば就職難易度や就職偏差値といった概念によって、就活生の価値観は凝り固まったものになっていき、大企業に入るのが偉いのだということになり、同じアドバイスを聞いた同じような就活生が生み出され、大企業に入る人は優秀だという世間の価値観が生まれ、外資信仰が生まれ、婚活市場では主に女性から男性の勤務先が評価されるという構造が生まれていく。そもそも就活は相性ではなかったか。

 以前私はいくら相性といっても面接もせずに落とされるのは相性ではないだろうと思った。また、多くの内定を得る人と全然得られない人がいるのは、やはり相性だけの問題ではないだろうとも思った。

 エントリーシートと適性検査で落ちるのに相性はあるのだろうか。これについてはやはりそれ以前の問題だと思う。特に適性検査の性格以外の部分は点数で明確に評価されるはずであり、企業もやはりある程度優秀な人材が欲しいはずである。適性検査だけでその人が優秀だとは、特にカンニングが平気で行えてしまうようなものでは、決して言えるものではないが、まったくできない人よりはすべて正解できる人の方が基本的な思考力や情報処理能力において優れているであろうことは問題の形式をみればある程度納得がいく。ここで落とされる人は今までの人生を反省して諦めろ、などと偉そうなことも口から出そうになるが、専門的な内容はなくて対策のしようはあるので、どうしても入りたい企業があるなら勉強をすればいいと思う。

 私は適性検査でずるをするような人が大嫌いである。それだけで口を利かないというようなことはないが、少なくともかなり嫌な印象を持つ。そもそも私は嘘が嫌いである。まして就職活動で自分の能力が低いことが問題であるのにそれを不正によって隠そうとする、そういう不誠実で愚かな人と一緒に働きたいとは決して思わない。私が同様に毛嫌いするのはLINEの返信がいちいちやたら遅い人である。

 話がそれたが、エントリーシートと性格検査についてはどうだろうか。これは少し相性の問題は介在するが、ある程度カバー可能であると思う。エントリーシートに関しては正直なことをそのまま書く必要はなく(もちろん嘘をつくことは論外である、自分の良い側面をうまく抜き出して、採用担当者にうまく伝わるようにしたためればよい。営業に近い営みと言えるかもしれない。したがって、企業が求める人材をよく理解していれば、うまく文章を工夫することによって乗り越えられる可能性は向上する。正確に関しては同じようなことやわかりにくいことを何度も聞かれたりするので、自信がないと判断されないように(本当はあまりないのだが)嘘にならない範囲で自分が理想的に振る舞うとどうなるかという視点で回答すればよいと思う。それで落ちる場合は、それが相性が悪いということなのだ。

 さて、多くの内定を、特に大企業から得る人がいる一方、まったく内定が得られない人がいる。同じタイミングで同じように就活を始めている場合は、相性ではなく上記のような就職に関する考え方の問題である気がする。しかしそれができても同様に内定が得られるなどとナイーブに考えることはできない。適性検査で満点が取れるとしても、である。

 これは相性である。相性で差がつくのは、社会が求める人物像というのはある程度似通っているからである。人には得意と不得意があることは誰しも知っている。適材適所という言葉もある。しかし多くの場面で重宝される人とそうでない人というのはやはりできてしまう。

 極端な話、顔立ちが整っているアイドルとそうでないアイドルでは、前者の方が間違いなく人気を獲得するであろう。それは性格やその他の能力ではカバーが極めて難しい。これと同じで、コミュニケーションが優れており、思考力に優れており、積極的でリーダーシップのある人が、多くの企業で重宝されるのは仕方のないことである。先述の通り、何とかしてこれらの能力のせめてひとつでも持っているのだという事を企業に示していく必要がある。

 なぜチームで何かを成し遂げたエピソードが紋切り型の如くしつこく問われるのか。企業はチームであり、必然的にコミュニケーションが発生するからである。なぜ高学歴は有利か。思考力があるからである。なぜ変わったエピソードが受けるのか。積極性と行動力がわかるからである。総合商社や投資系銀行に体育会系の人が採用されるのは体力が必要な仕事だからであり、営業に文系が多いのは理系が専門職に行くからというよりコミュニケーション能力が問われるからである。なぜ文系の方がコミュニケーション能力が高い人が多いのか・・・それは知らない。

 結局こういう構造になっているので、「大企業には入れてすごい」は上記の能力が総合的に高くてすごい、ということになる。もちろん大企業に入れたからと言って能力が高いというわけでも無名の企業にいるから能力が低いわけでもないが、まあ統計的な話である。これはある程度認めざるをえない。

 しかし私はこれらの能力が優れているからといって、大企業に入れるからといって、すごいとは思わないようにしたいと思う。人の価値はそんなところでは決まらない。そもそも私は人の価値は他人との比較で決まるものではないと思っている。ある観点に基づいた評価というものがただ存在するだけである。社会に必要とされるからといって偉いのだろうか。それはたまたま社会の形にその人が合っていたというだけの話であって、そのために努力したのであればその努力する姿勢は認めるとしてもその能力が高い人ほど価値があるというわけではない。たまたまそういう人とこういう社会があるというマッチングの話である。

 プンプンに嫌な男が出てきた。幸さんの元旦那である。能力が高くて、自分は勝ち組であるから偉く、そうでない人を見下していいのだという考えの持ち主であった。自分は社会で必要な能力を見極めてそのために努力してきたのだから努力を怠った人は負け犬で自分より下だということである。負け犬は自業自得で救いようがないらしい。みなさんはどう思われるだろうか。

 私としては、部分的に認めても全体としては否定的である。まず、努力でどうにもならない部分がある。これは先ほどの議論とも共通だが実力も運のうちというわけである。まったく同条件で、本当にただ努力をしたかしなかったかの差がある場合はどうだろう。もしそうなのであれば、結果はかなりの部分が因果応報であるかもしれない。努力しなかった人は現状に不満があるなら反省したほうがいいだろう。

 ではその人は負け犬なのだろうか。そこまで言われなければならないのだろうか。人は誰でも判断を誤るときはあるし、いつからでもできることはたくさんあるはずだと私は思う。そういう差別的な完全なるメリトクラシーの下生きている人は、自分が何か失敗をしたときに自分をどう感じるのだろうか。それも受け入れる覚悟だというかもしれない。自分の人生はすべて間違いだったという結論すらも、受け入れるつもりなのかもしれない。これは考え方の差であるが、そんな極端な考え方をする必要はないと思う。そもそも失敗などしないという人がいるかもしれない。それは完全に運がいいだけだと言わざるを得ない。加えるなら、失敗をまったくしたことのない人を私はあまり信用できない。

 私はやはり、なまじ有名な企業に入れて満足しているような馬鹿な人間が嫌いである。そういう人が周りにいたわけではない。就活に対する不満が生み出したただの仮想的である。でも実際にいると思うし、そこそこいい会社の内定をもらって一生懸命に匂わせて就活が終わった後も一生懸命就活について論じている人なら周りにいる。思考停止と言わざるを得ない。自分がたまたま「うまくいった」ことで必死で自分の弱みを隠して自分はすごいのだと言い聞かせて他人を見下すような中身のない残念な人にはなりたくない。いい会社に入ったからあの人はすごい、ではなくあの人が入ったという事はあの会社はすごいのかもしれないくらいに思われる人にならなくてはならない。いや、ならないことはない。私がそうなりたいだけである。

 これは完全な悪口であるが、私より頭が悪いのにコンサルに入っていい顔をしていい給料をもらうような奴は、いやである。むかつくからである。これは個人というより社会が悪い気がする。

 ここまで書いたことを読んだ上で、それはお前が就活がうまくいっていないからだという人もいるかもしれない。おっしゃる通りである。完全にヘイトであり、情けない限りである。就活がスムーズに終わっていたら、就活は正当なシステムだなどと言って、むしろ嫌な奴の側に回っていた可能性すらある。それでもやはり、人には優しくありたいと思う。

 私が頭の良さについてかなり能力主義なのは認めよう。前の議論と被るが、やはり私は優秀な人と共により優秀な人になりたい。ここでいう優秀は頭がいいと同義である。頭がいいの定義は別にしなくても大体一般的に言われている内容と同じなのでやめておく。そして自分の頭の悪さに悩む日々である。

 書きながら私のブログには全然新しい内容がないなと思っていたが、これだけ書いていると少し主張が出てきた。続けよう。

 就活に染まった価値観について考えてきたが、私はこれから脱却したいと述べた。ではどのように物事を考えていけばよいだろうか。

 どう考えていけばよいかという表現は少し不適切かもしれない。どのように考えようが個人の自由だからである。私が考えたいのはずばり自信の獲得方法である。

 能力が世間から評価されるかはすでに述べたように私にとってはあまり関係がない。世間が評価されるの力があるほど周りの人からも評価されるかもしれない。さらに言えば、おそらく人柄がよい人の方が周りの人からの支持を集めることだろう。それによって自己肯定感が高まることもあるかもしれないが、それもやはり他人に自信のよりどころを求めてしまっており、真に自由とは言えない。ここはやはり、完全に自分の中で独立した軸がほしいところである。

 ひとつは嫌われる勇気で紹介されていた「貢献感」である。私がこの本を読んだのはかなり前になるが、未だにこれは一つの軸になると思っている。自分が他社に貢献できていると感じることができれば、それだけで幸せを感じることができるということである。人間に対する愛があることが前提にはなるが、この考えは他人に左右されることなく常に持ち続けることができ、有用である。

 もうひとつ私が昨晩考えていたのが、自分のキャラクターを確立させるということである。この歳になって未だに自分のキャラクターがどうこうと言っているのはなんだかイタい気がするが、そこはお許し願いたい。

 これはどういうことかというと、自分が何者でもない気がして自信がないような気がするので(これは前掲の何者においても就活を通じて浮き彫りにされるテーマである、そこの解決を試みるものである。自分はこういう人だというのを作るのである。そこでは別に何かの能力が特別に優れている必要はなく、それこそキャラクターを被るのである。

 苦しかったときの話をしようかでも似たような考え方が紹介されている。本の中では就活に焦点を当てた内容であったが、そもそもは著者の森岡さんがP&G時代に考え出したもので、さらに元をたどればマーケティングの手法を個人に適用したものである。組織の中で自分がどのように思われたいのかを決め、そのキャラクターと一貫した行動を取ろうということである。

 本来のこの目的は自分の周りからの評価を高めることと自己実現を進めることであるが、これは容易に自己肯定感を高めることにも用いることができる。理想の人物像の中から、自分はこういう人になるというポイントを具体的に抽出し、それに合う行動を取ることで、自分の中での一貫性と、自分のオリジナリティが出てくる。本来は別にオリジナリティがある必要はないが、自分の自信につながる存在価値(ここでの価値は人としての価値ではなく大小の社会の中での価値である)を高めるためには、オリジナリティはあった方がよい。ただし、別に意識しなくとも自分とまったく同じ性格でまったく同じ強みを持ちまったく同じ理想を持つ人はめったにいないだろうから、自然とオリジナリティは出ると思う。

 自分のキャラクターを決めるときのポイントは大きく分けて二つ考えられる。まず、自分の現在の強みと一致していることである。逆に、弱点を補う形ではないという事である。弱点をある程度補うのは大切だが、今までの人生で弱点として顕在しているものを、そこが強みである人と同じ水準にまで高めるのは現実的ではない。自分は自分で強みに張る方がよく、直接的に強みを伸ばす行動を取る、または強みを強力にサポートするような知識や能力を身に着けるのがよい。

 もう一つは、自分が好きなことをやるということである。これは他社からの評価のために考えるときにはさほど重要視されないことかもしれないが、自分の自信を獲得するためにはむしと重要である。自分には好きなものがあり、それにきちんと取り組んでいるという自負は、独自性・個性を生み自信につながる。それが社会で必要な能力であるかはさしあたり関係がない。個性があっても自信がない場合があるが、まずは自分の個性が認識できることは大切であろう。なお、仕事を取ってみてもやはりよほど苦手でない限り自分の好きな仕事をやる方が成果が出やすいのは当然である。好きなことにはより多くの時間を割けるからである。

 自分の好きなことをちゃんとできていれば、もはや自信がある必要すらないのかもしれない。好きなことというのは本来何かのためにやるものではなく、ただ好きだからやるものである。好きなものをしっかりやって自信をつけるというアプローチはかなり取り組みやすいのではないかと思う。

 自分のキャラクターを選ぶ際は、なんでもかんでもやろうとしないことも大切である。人生は有限あり、やりたいことをすべてこなすことは往々にして不可能である。たくさんやるという事はその分ひとつあたりに割く時間が減ることを了承しなければならず、ここでは自分のキャラクターとして使える程度に取り組みたいので、絞り込んで取り組もう。何かを変えることができるのは何かを捨てることができる者である。

 先ほどの段落で大きく分けて二つという言い回しを用いた。論点を三つ程度の切り口に分けて考え、それをはじめに提示することは特にコンサルで好まれるコミュニケーションの基本である。初めに観点を提示されることで、聞く側も情報を理解しやすくなる。結論ファースト、である。コンサル的思考法は理にかなっている部分が多く、役に立つことも多い。自分には不足している考え方もいくつかあることが業界研究や参考書籍により判明したので、コンサルに行く気は現時点ではあまりないが能力としては身に着けておきたいなと思っている。ただしこれは自分のキャラクターとしての優先事項ではない。

 ところでこの記事はエッセイ的なものを念頭に置いて書き始めたが、やはり余計な内容が多く出てきてしまった。エッセイに学びがある必要はないのであり、書き手が読み手が何か学ぶことを期待して書いたエッセイはゴミである。

 ゴミのようだと言っているのではありません、ゴミだと申し上げているのです。これは半沢直樹である。実際にこんなことを言う人がいたらコミュニケーション能力と社会常識を疑うが、あれはあくまでフィクションである。しかしあのドラマは面白かった。銀行特有の金にまつわる駆け引きが生々しく、演技も相まって迫力があった。あのドラマのロケ地に使われていた企業にエントリーしていたが、そちらは落ちてしまった。残念。池井戸潤の小説は読んでみたいなと思っているが、銀行の話なら黒木亮の巨大投資銀行が面白いという話を聞いて、読んでみたいなと思っている。既に買ってある。

 私が優先的に取り組んでいきたいと思っていることをいくつかあげよう。キャラクターとして取り組んでいきたいのは、まず言語とITである。言語については得意でありかつ好きであるからである。ITについては得意とは言えないが好きであり、仕事に直接的に役に立つものである。あとは趣味として読書と音楽にはしっかり取り組んでいきたい。ただし音楽については趣味として楽しめればよく、勉強はしたいが個性になるまでしっかりやろうとはあまり考えていない。

 それから、今年中にやろうと思っていることもいくつかあって、今年の目標としている。上にあげたこと以外だと、世界史と数学と物理の勉強が挙げられている。就職すると新しいことに手を出すのも難しくなってくると思うので、今のうちに基礎的な素養を身に着けておきたいと考えている。

 ところで今更音楽をかけ始めた。聞きたい音楽が山ほどあるのにここまで書いてようやくである。そろそろ書き終わろうかと思っているのに。遅い。私は何かに夢中になると少々歯止めが利かないところがある。一気に進められるのは利点だがこのように融通が利かなかったり他のやるべきことがおろそかになったりする。社会人になったら社会に適合できるように少しずつ調整しなくてはならない。

 今年中にやろうと思っていることについては、想像以上に就活が長引いているので終わらないかもしれない。というか、早く遊びたい。遊びすぎて目標なんか忘れてまったく予定外の行動に走るかもしれない。たとえばワーホリ、外部オケへの参加、免許取得はどれも興味があるが今年の目標には含まれていない。まあその場合は一笑に付していただきたいが、今年は恐らく社会人になる前の最後の年であるから、目標達成への熱もかなりある。がんばりたい。

 今がんばりたいと書いたが、実は私はある時を境にこれをやりたいとかこれをやらないといけないという事を意識してやめるようにした。それを言って満足してやらないというケースがあまりにも多いからである。満足しているつもりはないが、言うだけ言ってやらないを繰り返していてはもはや嘘つきである。言うならやる、やらないなら言わない、言わなくてもやるを心掛ける。

 話は戻るが、好きなことをやっていればいいのならなぜ今になっても私は自信がないなどと言っているのか、ということだが、これはすぐに違う事・簡単なことに流れてしまうからである。簡単なことというのはだらだらSNSYouTubeを見ることを指す。違うことに流れるのは集中力が散漫であることと目移りしやすい性格に起因している。やはり先ほど述べたように何かをやる前に何かをやらないと決めることが重要だなと思う次第である。

 ところで集中力で思い出したが、コロナ後遺症の話である。先日不覚にもコロナになってしまった。かからずに終わるつもりでいたのでとても悲しい。実家に帰らなければよかった。そして今は後遺症が残っている。咳・喉の違和感(声を含む)・鼻づまり・副鼻腔炎・嗅覚障害・味覚障害がある。嗅覚と味覚を両方奪われたのはつらい。おいしいものを食べても意味がないのである。すべてのものを鼻をつまんで食べている状況に近い(この場合味覚はある)。食事に対するモチベーションを保つのが大変であり、一刻も早く戻ってほしい。というか後遺症が多すぎやしないか。ワクチンを4回も打ったのにまったく遺憾である。

 咳と喉は私から笛を奪っている。練習したいのだが。面接でもゲホゲホいう羽目に陥っており、なかなか辛いものがある。

 その他の例えば集中力や体力・倦怠感については特に自覚していないのだがもしかしたら出ているのかもしれない。この大事な時期にこんなものが出ていたら大打撃である。体力については後遺症かどうかはわからないがしばらく寝込んでいたので確実に落ちたと思う。疲れて昼間に眠くなる。逆に最近眠気が少ないような気はしている。夜は眠れず朝は目が覚めるのである。どういうことかはわからないが、生活リズムは整えたい。

 今聞いている曲はバルトークのオケコンである。非常に難しいことで知られる。大概の曲は初心者からしたら難しく、相当練習しなければならないが、この曲はプロ目線で難しいとされている。まあ、この音源のシカゴ響なら大丈夫だろう。興味深く聞いている。

 そういえば最近愛用していたイヤホンが壊れてしまった。右耳が聞こえなくなったのである。コードの接触を支えてやると聞こえるときもあるが、これでは使い物にならない。ということで新しいイヤホンを買いたいのだが就活のせいでバイトができずお金がない。本当にない。こればっかりは親に相談である。ちょうど今アマゾンがセールしているのだった。

 アマゾンと言えば高校の同級生が就職したらしい。そう聞くとやっぱりちょっとうらやましいのが私の弱いところである。そもそもアマゾンのアカウントすら持っていない。

 お金がないでいえば就職先を選ぶにあたって給与はどうしても気になってしまう。フォロワーが夏のボーナスが手取りで100万あってひっくり返りそうになった。SIerに勤めているらしいが、SIerってこの先どうなんだろうなどと少し考えているので、意外というか虚を突かれた感じがする。SIerは景気がいいらしい。

 ボーナス額は各社募集要項にある程度書いてほしい。会社によって全然違うではないか。特に大企業は高い傾向にあるようだ。そのことを取り上げて就活情報のアカウントが大企業に入ろう!とツイートしていてもやもやを覚えた記憶がある。人によっていろいろ考えはあるのになんでそんな迷わせるようなことを言われなければならないのか。大企業はボーナスが多いよ、くらい言っておけばいいではないか。中小企業にとっても風評被害もいいところである。

 とはいえやはり、就職の軸をしっかり決めたつもりでも給料で比較してしまい、軸とは何だったのかと悲しくなってしまう。給料が低い方の会社を選ぶというのは相当な覚悟が必要なようだ。おそらく転職では実際に働いて見えた課題や優先したいことを基に進めていくので比較的考えやすいのだろうなと思う。

 就活の悩みは尽きない。剰え就職後にも悩みはある。

 たとえば年齢である。この歳であるがまだ働いていない、というのはよくあることだと思うが、30までに結婚したい身としてはそううかうかしていられないのである。働き始めてどこに出会いを求めればよいのかよくわかっていない。出会い系アプリはやることになるものだと覚悟しているが、本当に理想の相手に出会えるのか不安が残る。

 それから恋愛に限らず人生設計についてもやや焦りがある。20代である程度成果を出しておくことがキャリアアップを考える上で重要だと思うが、22歳から働いている人に比べ明らかにスタートが遅く、本当にやっていけるのか不安がある。つみたてNISAについても早く始めないと資産形成が遅れてしまう。もう始めちゃってもいいのかもしれない。

 さらに、人間関係全般についても不安がある。いい上司に巡り合えるかは正直わからないので考えないとして、新たな人間関係を築いていけるだろうか。要するに、友達はできるだろうか。正直この悩みは結構大きく、友達作りと婚活のために就活をしている節がある。ふざけるなと言われるかもしれないが結構真剣である。ひとりでは生きていけない。自分の成長と幸せはこれまでもこれからも周りの人間に大きく左右される。

 さらにさらに、キャリア形成に関しても杞憂かもしれないが既に悩んでしまっている。死ぬまでに修士号を取りたい。そしてできれば博士号も取りたい。年収は手取りで1,000万円はほしい。職種は本当に自分にあっているものを選べるかわからないし、就職先についても理想100点満点の企業にはならずある程度妥協が必要だと思うので転職をしたい。なんらかの形で海外に行くチャンスもほしい。自分はうまくやれるだろうか。どのルートが最適解なのだろうか。

 そもそも仕事以外で趣味など今やりたいと思っていることは就職してからできるのだろうか。まず新しい生活に慣れるのに数年かかることは確実だが、その中で自己研鑽もしていかなければ活躍できない。高校を出てからふざけた生活を送っているので週5勤務の生活に体が耐えられるのかすらも怪しいところである。

 これは未来についての悩みであるが、過去についてのどうしようもない後悔もたくさんあり、定期的に頭を蝕んでくる。未だに大学受験と大学院受験の失敗は手痛いと思っているし、収拾がつかないほどに膨らんだ「理想」と現実の差に苦しめられる。こんなはずではなかった・・・と言っている暇があったら行動しなければならない。現実は思っているほど思い通りにはならないらしい(特に人については)。

 すべての悩みをまとめればこの先うまく生きて幸せになれるのかというところに集約される。ひどくありきたりである。わからないが、その場で最適と思われる行動を取り続けるしかない。適当に行き当たりばったりで生きていたら流されて終わってしまう。とにかくまず自分を信じ自分に賭けることである。あとは、人に優しくしておくこと。

 そういえばイシューからはじめよに悩みは無駄だと書いてあった。悩みというのは答えが出ないことに対する考えるふりなので基本的に時間の無駄だそうだ。建設的に考えるように気をつけよう。

 すぐ目の前のことに囚われてしまうのは私の欠点である。やはり先ほど述べたように自分の軸を確立して、それをよりどころにしてスマートにイシューを斬っていきたい。

 そして私は実は既にふたつ中心的な考え方の軸を設定している。ディオニュソスと永遠の愛である。

 ディオニュソスギリシャ神話に登場する豊穣と酩酊の神の名前である。ニーチェの哲学に登場することで知られ、音楽(特にニーチェが好きだったワーグナー)は陶酔的な=ディオニュソス的な芸術であるとされている。今でも特に古い評論なんかではフルトヴェングラーベートーヴェンの演奏においてそのディオニュソス的な精神を完璧に表現しており云々などと用いられる。私が意図するところはギリシャ哲学でいうところのエネルゲイアとほぼ同義で、あとで後悔することのないよう一瞬一瞬を陶酔的に・・・とまではいかずとも全力で生きることを表している。甘えるなよ、ということである。

 永遠の愛はスピノザ哲学から着想を得ている。おそらくこの形で用いられてはいないと思うが、永遠も愛もエチカに登場する概念である。永遠は通常の用法とは少し違い、時間の概念に束縛されない。言葉で説明するのが難しいが、この一瞬に絶対的に存在すること、その必然性が永遠である。また愛は神の知的愛と一般的な愛の両方を意図している。神の知的愛は、かなりかみ砕いて言うと、自然全体は神の一部であり、神は当然自分を愛しており、よって我々は絶対的な存在によって必然的に今のこの状態を肯定されているということである。ここだけ言ってもピンとこないと思うので詳しくは入門書を読んでいただきたい。つまり私が永遠の愛という言葉で言いたいのは、自分は神の存在と同じ必然性でこの場に存在していて、必要以上に自分を責める必要はなく、また自分の悩みや周りの人々もすべて永遠の相の下にあるのであって、近視眼的にならず大きな視点で捉え、愛そうということである。

 自分が言っていることが正しいのか、というか何を言っているのかわからなくなりそうだが、正直私のニーチェスピノザの理解もきっと不十分なので、なんとなくで捉えていただきたい。ざっくり言えば自分に自信を持って視野が狭まらないように全力で生きて日々感謝、ということが言いたいのである。

 ところでベル不等式の破れすら知らないスピノザハイデガーの名前はもう出すなという大変過激な物理学者のツイートを目にした。そんな古い思想に囚われるな、新たな哲学を創造している現代物理学を見ろということらしい。正直私の現代物理学に対する理解がないのでこの人が本当に言いたいことを理解できないような気がするが、それでもやはり言いすぎだと思う。

 まず、古い思想に囚われるなというのは理解できるが、それを学んだり持ち出したりすることには何の問題もないように思うし、偉人の名前を出すなというのは歴史に対する侮辱である。間違っているなら間違っているとして取り扱うべきで、名前を使うなは言い過ぎであろう。

 それに、人類の世界の見方を考える哲学と現実を記述するための物理学は、互いに影響を及ぼし合うことはあっても完全に一致している必要はないと思っていて、哲学をあくまで科学の中に位置づけたいのであればそれはそれとして、世界を捉えるための道具として持ち出された哲学の価値が失われることはないだろう。

 現代物理学を理解した上で新たな哲学を作るべきという発想は面白いと思うのでそういう取り組みがあっていいと思うが、科学もモデルであることには変わりないので、その意味では現実に矛盾しない限りで古い哲学が否定される必要はなく、個人の好みの問題であるように思う。ただし最近たまに見る量子力学を適当に使った適当な自己啓発本は一刻も早く駆逐されてほしいと思う。

 改めて一連のツイートを見直してみたが、哲学が現代物理学によって明らかにされた「現実」を無視していることが問題らしい。しかしそれは物理学の領域に踏み込まない限りは哲学のありかたとは関係ないと思う。なかなか議論の骨格を掴むのが難しいのでみなさんも元のツイートを参照して考えてみてほしい。引用リツイートやリプライでもいろいろと意見が出ている。

 聞いていたウィーンフィルの今年のサマーナイトコンサートも終わりそうなので私もそろそろ書くのを終わろうかと思う。疲れてきた。最近考えていたことはかなり書けた気がする。

 今日はこの後3社ほど就活を進めたいと思う。冒頭に書いた通りここ数日予定されていた面接を除いてまったく就活が進んでいない。早く終わらして、今年の目標をクリアしていきたいと思っている。

 この記事は一切見返していない。誤字気づいたら直すが、結構あるかもしれない。